「出会い」、「出逢い」と騒がれていますが、本来出会いとはどういうものなのでしょう。少し概念的になるかもしれませんが、出会いの本質について述べていきましょう。
目次
辞書における出会いの意味
辞書を引くと、であうこと、めぐりあうこと、おもいがけなくあうこと。とあります。また
人とのであいが「出会い」または「出逢い」で、ものや事象とのであいが「出合い」と使い分けるようです。あまり意識して使ったことはありませんでしたが、ここでは人との出会い
について述べたいと思います。
人との出会いについて
まずは人との出会いです。相手が同性の場合と異性の場合があります。そこには大きな違いがあります。どちらも人生における貴重な出来事であることに違いはないのですが、やはり異性との出会いが人生という長い道のりでみても、最も重要な出会いだと思います。
同性との出会い
同性との出会いももちろん重要なことです。場合によっては人生の方向を大きく左右する出来事になるかもしれません。私が出会った同性で、一番私の人生に大きく影響を及ぼしたのはとある俳優さんでした。30年以上前のことになりますが、たまたまその人が主演するミュージカルを観たことがきっかけでした。人生で初めて観た舞台で、しかもその人が目の前で歌っている姿をおそらく一生忘れることはできないでしょう。
結果私の夢はミュージカル俳優になることになってしまいました。大学も演劇専攻に進み、アルバイトで貯めた資金で、ジャズダンス教室に通い、合間をぬって学校に行くという生活を続けることになるのです。最終的には20歳くらいからいきなり初めても、幼い頃からクラシックバレエをやってきた人には到底適わないのです。卒業前にその夢はなくなりました。というか別の夢に置き換わったといったほうがよいかと思います。演劇の勉強をしているうちに映像作品のほうが面白くなってきてしまいました。そこから専門を映像に切り替え、特にアメリカのテレビドラマを中心に研究し、卒論まで至りました。
異性との出会い(その1)
異性との出会いは数限りなくあります。もちろん若いころに出会った人もなんらかの影響を残したでしょう。ですが人生において大きな転機にさえなった出会いはそう多くはありません。
私が人生で最初に大きな影響を受けたのは、大学時代に付き合った日系三世のアメリカ人でした。留学生として日本に来ていた彼女と出会ったのは、帰国の3ヶ月前でした。たまたまあるサークルの関係で出会い、ホームステイ先のパーティーで酔っ払った彼女と夜明けにキスをしてました。そのまま付き合い始めたのですが、あっという間に帰国の日がやってきたわけです。その後アルバイトでお金を貯め、アメリカまで追いかけていき、再開した彼女に言われたのは「もう好きではない。あのころは寂しくて相手が欲しかった」という結末。
そこから私のアメリカ文化への執着と英語習得への執念が生まれたのです。その彼女をなんとかしようというよりも、文化の違いがあること、それを知ることによって誤解や曲解をなくし、真の意味でのコミュニケーションが生まれるということを徹底的に認識せざるをえない状態になったこと。それが彼女が私に残してくれた最大の財産でした。
そこから私のアメリカ文化、アメリカそのものへの執着が生まれます。結果ニューヨークの新ブランドのバッグを企画したり、アメリカ文化そのものの塊であるテーマパークにも籍をおくことになるのです。おそらくその人との出会いがなければ、そこまでの執着はなかったでしょう。当時彼女を理解できなかった、小さな自分から一刻も早く脱却し、グローバルな視点を持った、大きな自分になりたかったのです。それが私自身の生き方、歩き方の指針になりました。
異性との出会い(その2)
二人目の異性は二番目の嫁でした。彼女とは会社で知り合いました。ディレクターの秘書をやっており、英語が堪能でチャキチャキとした、元気な女性でした。なぜ彼女に惹かれたのかは今でもわかりません。ただ自分とはおそらく正反対の性格に魅力を感じたということだと思います。
いつのまにか付き合うようになり、結婚の話にもなりました。非常に強く子供を欲しがる人だったのです。結婚し、いつ子供ができてもいい状態になりました。ところがどう頑張ってもできなかった。不妊治療を長い間することになります。女性にとっては大変な治療でした。自然なタイミングではなく、薬でタイミングをより強化するのは肉体的にも精神的にも大きな負担を強いることになりました。それでもできることはありませんでした。
少しインターバルをおき、再開のために婦人科を訪れたときにその宣告はありました。癌が見つかったのです。初期だったので摘出まではしなくて済んだのですが、子供は諦めざるを得なくなってしまいました。それでも二人で生きていこうと初めは前向きに考えていました。ですが、ずっと子供が欲しかった彼女にとって、その結論はやはり重すぎました。心を病んでしまったのです。ほぼ一人では外出することさえ不可能な状態にまでなってしまいました。私は仕事も辞め、彼女の実家で母親と交代で面倒を見ることになりました。
長い闘病生活が続き、やっと少しよくなってきた時のことです。離婚してくれと。自分のために私が夢を諦め人生をむちゃくちゃにすることに耐えられないというのです。最初は何を言っているのかさえわかりませんでした。心が弱っているが故の思いつきかとも思いました。ですが私がいることで彼女の病状は悪化していきました。その決断は一生私のトラウマになっています。離婚を受け入れました。一切の連絡方法も断ち、一切のつながりを無くし新しい生活が始まりました。
半年ほどたった頃、唯一残しておいた母親から連絡が入りました。まさかと、そんなことはと思いましたが、あれだけ連絡を取らないようにしたにも関わらず連絡がきてしまった。かなり病状もよくなってきたことに安心して、一瞬目を離し出かけた間だったようです。自ら命を絶ってしまったのです。
何を言われても離婚などすべきではなかった、どれだけ嫌がられても目を離してはいけなかった。その後悔はこの後の人生で絶対に消えない後悔となりました。私自身も大きな心の傷を負ってしまいました。
それも出会いなのです。そこから立ち直るのに2年近い時間を要しました。ほぼ0から人生を組み直すことになりました。出会いは人の人生を大きく左右するくらい重要なことなのです。
仕事との出会い
人生において、人との出会いと同じくらい重要なのは仕事との出会いではないでしょうか。
その点について、また自分の経験からになりますが、述べてみたいと思います。
最初の仕事との出会い
私が最初に就職した会社は、ハンドバッグの企画卸会社でした。ハンドバッグが好きだった訳ではありません。50社近い会社を受けた中で、最も初任給の高かった会社を選びました。大学での専攻は演劇でしたが、一番好きなことは仕事にしたくなかったので、二番目に好きなファッションの世界を選んだのです。ライセンス契約という、著名なブランドの名前を借りて、そのブランドのテイストを表現するハンドバッグや革小物を企画し、ブランドの承認を得て、商品化し、できた商品を全国の百貨店や専門店に卸すということをしている会社でした。
最初の2年半は営業として全国を回っていました。当時はまだバブルが完全に弾けきっていない時期でしたので、ブランド全盛の勢いを受け、非常に良い売り上げをあげていました。そんな中運命の仕事に出会うのです。役割はMDでした。商品企画開発の責任者で、担当のブランドの損益で評価される立場です。ブランドの旗振り役として、そのブランドの実績を分析し、次のトレンドをマーケティングし、商品構成を考え、どういったものを作るかをデザイナーと協議し、仕入れ担当とはいかにその商品を効率的に作るかを検討して、商品化するという仕事です。
その仕事はまさに私がやりたかった仕事でした。もともと役者として自分自身を媒体として人の心を動かしたいと考えていた私が、今度は商品を通して人の喜びを演出するという、表現方法が変わっただけの仕事につくことができた訳です。それに気づいたのは実際にその仕事をするようになって間もない時期でした。
いくつかのブランドを担当し、黒字を増やし、新規ブランドの立ち上げも行いました。ニューヨークを拠点とする新ブランドも担当しました。仕事で海外を飛び回るという夢も叶えることができました。そんな中、さらに私がやりたい仕事に出会うことになります。
二つ目の仕事との出会い
最初の仕事をほぼ10年やったころでした。とあるアメリカのテーマパークが日本に進出するので、マーチャンダイズの立ち上げメンバーを探しているという話が飛び込んできたのです。先に述べたように、私はアメリカ文化に並々ならぬ執着がありました。そこで私の10年間のもの作りの経験と、アメリカ文化の象徴とも言えるテーマパークの物販という仕事が期せずして出会ってしまったのです。二つ返事で行きたい胸を伝えました。そして運よく内定するのです。
準備の2年間は最も大変な生みの苦しみでしたが、フロリダやロサンジェルスのあらゆるテーマパークを視察し、商品の研究、分析をし、こちらの数十あるテーマ(映画コンテンツ)にあった商品ラインナップを作り出すという、今思うと自分の人生で最も楽しい時間を過ごしました。契約がアメリカのライセンサー本体との間で交わされていたので、全ての商品のコンセプト、試作品、完成品を承認してもらう必要がありました。ほとんどのライセンサーがニューヨークにオフィスを構えていましたので、なんども訪れることになりました。再びニューヨークで仕事をするという夢を少しずつ実現できた訳です。
2001年3月31日にグランドオープンを迎えます。そしてその前の2年間から10周年までをそのテーマパークで働きました。なんとラッキーな道のりを歩んできたかと自分でも思いました。物作りで自己実現をしながら、運命さえ感じていたアメリカ文化の中で仕事ができる。そうそうそのような出会いには恵まれないと思います。
しかし、その夢は絶たれるのです。嫁の介護のために辞めざるを得なくなってしまったのです。全てがうまくいくこともそう簡単ではなかったのです。一方の出会いがもう一方の出会いで続かなくなってしまうこと。これもよくある話なのでしょう。
出会いのまとめ
こうして見てくると、私の人生は全て出会いによって決まってきたようです。それだけ出会いというものは重要だと言えるでしょう。私の場合、その出会いには恵まれていたと思います。仕事においてはずっと好きなことを仕事として続けてこられたこと。なかなかそういう人は多くないのではないでしょうか。多くの人が出会ってしまった仕事に不満を持ちながらやっているのが現実でしょう。もちろん私も不満がなかった訳ではありません。ですが、好きな仕事の中での不満は、解決することも楽しいと思えるものです。おそらくですが、私はこれからの人生も物作り、コンセプトワーク、文章作成等になんらか関わる仕事を続けていくのだろうと思います。
人との出会いにも恵まれていたと思っています。自分に夢を与えてくれた人との出会い。人生の難しさ、命の重さ、人間の弱さを教えてくれた人との出会い。どちらも本当に貴重な、何ものにも代え難い出会いだったと思うのです。計画していた人生設計が根本から覆ってしまった出会いもありますが、失ってしまった人の分も自分は生きなければならないと思うのです。
これを読まれている方々も、たくさんの出会いを経験し、これからもたくさんの出会いに出会っていくことでしょう。その全てを大切にしてください。人との出会いだけでなく、仕事との出会い、ものとの出会い、全てを受け入れ消化していってください。それが人生です。
出会いが人生を作るといっても過言ではないと思います。怖がる必要はありません。全ての出会いは人を成長させてくれます。時には試練もあるでしょう。ですがそれも貴重な出会いなのです。
頑張りましょう!
ライタープロフィール
ライタープロフィール
初めまして、dantevergildmcです!
年齢50を越えてしまったサラリーマンライターです。
品質管理の仕事をしながら、空いた時間は大体何か書いています。
映画好き、ガジェット好き、女性好きという何も特別ではない人間ですが、読んでいただける記事を書きたくがんばっております。よろしくお願いします。